シンポジウム趣意書 「「近代化」の意味を考える─アジアとヨーロッパの錯綜─」 |
昨年は世界史におけるモンゴルの問題をとりあげ、報告者・コメンテーターだけでなく、フロアも含めて活発な議論が行われ、貴重な成果をあげることができた。今年は討論の対象を19世紀に移し、日本史・東洋史(清朝史)・西洋史(ドイツ史)の3分野から報告者を招き、昨年同様、シンポジウムとしての充実した討論を目指している。 2018年の今年は、一部から明治維新150周年に着目する声も出ている。なぜ明治維新なのか、という点は論者によって異なり、明治維新を肯定的にとらえる向きも、そうでない向きもある。とはいえ、過去を振り返ろうとすること自体が、現在、日本の将来の姿が見通し難くなっていることを示しているように思われる。というのも、明日を見通すためには、今を正確に理解することが必要となるが、それができていると確信できれば、過去を問う必要もないからである。 世界規模で国境を越えた人口移動と経済のグローバル化が進み、国民国家(Nation State)の枠組みが揺らぐ一方で、ヘイトスピーチに示される排外主義的な風潮は論外としても、多くの人びとの自国中心主義的な内向きの志向の根強さをどう理解すべきなのか、私たち歴史を学ぶものは困惑している。そしてこうした傾向は日本だけのものではなさそうである。 国民国家をとりまく両極端な状況の併存に関する諸問題への答えを、安易に求めることはできない。ただ、少なくとも、過去を美化することからは、何も得られないことはいうまでもないだろう。「歴史家の機能は、過去を愛することでもなく、自分を過去から解放することでもなく、現在を理解する鍵として過去を征服し理解すること」というカーの言葉は、いまでも意味があるといえよう。まさに歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」である(E・H・カー、清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波書店、1962年)。 そもそも世界史において「近代」「近代化」をどう考えるのかについては、いくつかの立場があるが、一般的にいえば、西洋の「近代」とは17世紀以降、イギリス・フランスなど欧州の先進地域において、政治・経済から文化・社会までを包括する新たなシステムが成立し、19世紀にはドイツなど後進地域にも広がっていった時代を指している。また「近代化」とは具体的にいえば国内的には国民国家の形成・発展を目指し、対外的には植民地獲得のために、アフリカ、アジアなどへ侵略を進め、先進的な国民国家群が、さらなる富強化を求めて相互に妥協と対立を繰り返したプロセスと理解される。 近代を生み出した精神(モダニティ)は、たとえばシュオルツなどによって「ファウスト的な文明」・「プロメテウス的な沸騰」などと形容された(B・I・シュオルツ、平野健一郎訳『中国の近代化と知識人』東京大学出版会、1978年)。 説明するまでもなく、ファウストはゲーテの作品の主人公で、自身の欲望のために、悪魔メフィストに魂を売った男、プロメテウスはギリシャ神話の神で、人間に火を与えたことで主神ゼウスの責め苦に会う。 シュオルツは彼らの名を用いて、富強を求める欲望の際限のなさ、目的のためにはどんな犠牲をも厭わない献身的な精神を表していると言えよう。夏目漱石に言わせれば、西洋の近代化の精神は「先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない」ということになるが(『我が輩は猫である』)、モダニティの本質の一面を的確に捉えているといえよう。 日本や中国にとって「近代化」とは、19世紀の西洋の侵略に対応して「攘夷か開国か」という国論の対立を経て、開国を選択して、国民国家に集約される近代のシステムを受け入れることによって自強をはかった過程である。だが、その変革の過程はそれまでのものの見方・考え方の根底からの変革を伴う、極めて困難なものとなった。夏目漱石は『我が輩は猫である』において、アジア的な精神を「消極的で大に味がある。心そのものの修業をするのだから」と評しているが、アジアにとっての近代化とは政治・経済的な制度の変革だけでなく、ファウスト的、プロメテウス的なモダニティの受容を必須としたといえよう。 こうした「近代化」の問題群を考えるうえで、本年のシンポジウムが想定しているのは、自己認識と他者認識とが錯綜するところに各国・各民族の特質を見ようという方法論である。一般的に言って、自国・自民族をどう理解するのかは、常に他者との比較のなかで、自身の「後進性」や「先進性」あるいは「特質」が意識され、そのイメージがさまざまな契機によって更新され、上書きされることで進められる。そしてその自己認識に基づき、将来のあるべき姿が模索される。 また他者との関係をもたざるをえなくなった段階で、いかに他者を認識するかがその国家・民族の行く末に大きな意味を持つ。ときに他者に対する誤った認識は、政策の誤りを生み国益を大きく損なうことがあるが、誤認ゆえに新たな政策が作り出され、良いか悪いかは別として、長くその政策が対内的にも対外的にも大きな影響力を持ち続けることがある。 それゆえ本シンポジウムのタイトルを「錯綜」とした。 当然、問われるべきは言うまでも無く、自己認識、他者認識の正誤の有無のみではなく、それが果たした役割であろう。こうした錯綜した歴史の現実を理解するためには、かつての一国史的な研究方法では十分な成果をあげることはできない。マルチアーカイブといわれる複数言語の史料を活用することや、関係史の分析の深化などが求められる。さらに各国の状況を十分に踏まえたうえでの比較も有益な方法となろう。自己認識・他者認識の問題を念頭におきつつ、シンポジウムとして三者に報告をお願いしたゆえんである。 それでは以下、3報告の概要を順に紹介したい。 まず日本の事例として、田口由香氏(長崎大学)が「ヨーロッパのアジア進出と明治維新―イギリスとの関係を中心として―」と題する報告をおこなう。 氏によれば、日本の「近代化」は、欧米列強のアジア進出を対外的危機ととらえ、国家としての独立を守るために必要な国家体制を模索するなかで進められたとする。そしてその過程において、王政復古による幕府の廃止、新政府の樹立、廃藩置県による中央集権化など、近代国家体制を確立するための諸改革がおこなわれた。そのため明治維新における「近代化」は、19世紀の国際情勢を背景に進展したのであり、日本の「近代化」の意味を考えるためには、欧米諸国が日本の変革過程に与えた影響を考慮に入れる必要がある。 したがって本報告では、自由貿易帝国主義をとるイギリスが日本の朝廷・幕府・諸藩をどのように位置づけていたのか、また長州藩・薩摩藩はイギリスに対してどのような対応をしたのか、日英双方の史料から幕末期の国際関係を明らかにすることにより、日本の「近代化」の事例を提示する。 次に、中国の事例として、宮古文尋氏(上智大学・埼玉大学非常勤講師)が「清末新政期の政治制度改革構想における海外政治への眼差し」と題する報告をおこなう。 氏によれば、清末新政期における政治制度改革の議論が本格的に始まるのは、日露戦争の戦後処理の建議要請がなされた1905年6月以降であるとし、これに応えた地方大官は、海外政治視察団の派遣を建議したのであり、なかでも日本の視察を重視すべきと意見した。ただし、1901年の清末新政開始前後からここに至るまでの間に、政治制度改革の構想が存在しなかったわけではないという。 そこで、地方大官をはじめとする改革の構想者は、日本と西洋の政治制度をどのように理解し、それらを清朝に援用することについてどう考え、建議要請に応じたのか。また、海外政治視察団は、日本と西洋の政治制度をどのように観察し、もたらされた情報は、その後の政治制度改革にどう生かされたのか、これらについて検討する。 そして最後に、ドイツの事例として、大井知範氏(清泉女子大学)が「19世紀ドイツの東アジア像と帝国主義進出―絵入り新聞に映し出された世界認識―」と題する報告をおこなう。 氏によれば、19世紀後半に統一国家となったドイツは、西欧諸国の後を追うように工業化と資本主義化の道を歩んだのであり、やがてその視線は外の世界にも向かい、近代海軍の建設と海外植民地の獲得を通じてグローバルな活動を展開していったとする。それならば、こうした「近代化」のプロセスのなかで、ドイツ社会が非西洋に向けた視線はどのように変化したのだろうかと問う。 そこで本報告では、19世紀後半に普及した絵入り新聞の挿絵記事を手がかりに、当時のドイツ人が描いた他者認識とそこに投影された自己認識を探り出す。とりわけドイツの東アジア像を具体例として取り上げ、視覚的な表象が帝国主義的な政策実践といかなるつながりを有していたか考えてみたい、とする。 以上、3名の報告概要を述べたが、その特色を改めてまとめると次のように整理できる。 すなわち田口報告は、日英両国の史料を用いることにより、長州藩や薩摩藩のイギリスへの対応だけでなくイギリス側の日本認識、具体的には日本の朝廷・幕府・諸藩に対するイギリスの認識を理解しようとするもので、両者の認識の差に注目しながら幕末・維新期の国際関係を明らかにすることで日本の「近代化」の実態に迫ろうとするものである。 また宮古報告は、20世紀初頭、地方大官など政治改革を進めるべき立場の者が日本や西洋の政治制度をどのように理解し、選択・採用するに至ったのか、そして実際派遣された海外政治視察団が日本や西洋の政治制度をどのように観て、得られた情報をその後の政治制度改革にどのように反映させたのか、明らかにするものである。 そして大井報告は、19世紀後半に流布した絵入り新聞の挿絵記事を丹念に分析することでドイツの東アジア像を具体化し、それが近代海軍の建設と海外植民地の獲得など帝国主義的な海外進出に展開していく過程を述べるものである。 このように、3報告はいずれも「近代化」を扱いながら、対象時期や分析方法において異なる部分が認められる。すなわち、田口報告では幕末維新期における先進国イギリスと日本の諸勢力との相互認識、また宮古報告は19世紀ではなく20世紀初頭における清朝の政治制度の具体的実践、そして大井報告では新聞の挿絵を分析対象として用いている。 このように、「近代化」の開始時期や、背景となった国際関係の分析に多少違いがあるものの、シンポジウムとしては各国の状況をふまえた上で比較・検討することが重要である。したがって、まずは報告者全員にそれぞれの分析結果を披露していただき、その内容を皆で確認、共有したい。 3報告は、他者認識という共通した視点を持っている。すなわち田口報告ではイギリスの日本認識や日本のイギリス認識、また宮古報告では中国の日本・西洋認識、そして大井報告ではドイツの東アジア像といった具合である。宮古・大井両氏がそれぞれ報告タイトルに「眼差し」「世界認識」という表現を使っていることがまさにそれを物語っている。 報告に登場する日本とイギリス、中国と日本・西洋、さらにはドイツと東アジアなどの相互認識について理解することが、ひいては東アジアのヨーロッパ認識やヨーロッパの東アジア認識について考えることにもつながる。 そうした点をふまえ、錯綜する他者認識と自己認識に注目しつつ「近代化」について検討することで、アジア・ヨーロッパという枠組みを越えたグローバルな視点で「近代化」の意味を考えたい。 シンポジウム当日、活発な議論が繰り広げられることを期待する。 |